2012年04月12日

2012-I 人間環境共生論 レポート イノベーション創世記

2012-05-29
京都大学地球環境学大学院 人間環境共生論 レポート①

「イノベーション心得書」創世記

山本泰弘(地球環境政策論分野 修士2年 7330-23-1663)


 人文学と地球環境とのかかわりにおいて、旧約聖書「創世記」の伝えるメッセージは大きな話題である。現代社会における解釈を論じる上で、文明的古典とも言える聖書がどのような社会情勢の時代において成立したか考察する必要がある。本稿ではその観点から、創世記を一種の「イノベーション心得書」ととらえる考察を示すものである。

1.創世記の「思想的方向づけ」

 創世記は、人に対し「自然を支配せよ」と教えた。神の名において与えられたものであると教えた。支配者として人は自然の万物の恩恵を受け、そして地に満ちよと呼びかける。
 近年では「人には、番人・管理者として自然環境を適切に維持する務めがある」との理解も示されているが、「人は君主・主人として自然を征服、利用する」との理解のほうが容易だろう。こちらの理解に基づいてキリスト教文明社会が続いてきたことは歴史の示すところである。
 人間と自然との関係においてのみでも、聖書という書物は、文明社会の思想基盤を養成する非常に濃厚な影響力を示してきた。それは聖書が普遍的に理解されるということのみならず、文明社会の生存・進展に人々を方向付ける機能をも有していたからではないか。


2.創世記成立の時代の常識

 旧約聖書が成立した紀元前後の人間社会のあり方を想像するに、人間に対する自然は脅威以外の何物でもなかったことが推察される。当時の世界で地域ごとの太陽信仰・自然信仰が支配的だったことからもわかるように、人間は自然に生存を支配され、自然に畏怖の念を抱き、抗う術を持ち得ないのが当然であった。農耕における悪天候、人や作物に広まる疫病、野獣や有毒動植物の存在が、自然の支配力を痛感させる典型的な要素だったと考えられる。古老の教えや伝承・文書の形で対策情報が伝えられたであろうが、逸脱する集団も多かったのではないか。社会の主導権は絶対的に自然の側にあり、人間にとってその制約は所与のものであった。


3.紀元前地中海・欧州の社会的課題

 「自然の許す範囲でのみ生きる」と誰しもが信じる社会はどうなるか。古代ギリシア文明期には相当数の都市国家が成立したが、一定の人口圧力が働いていたのではないか。開拓をためらっていれば都市や集落の人口密度は高まり、食糧問題が迫るほか伝染病による壊滅の危険も上昇する。
 条件のよい土地を吟味すれば他者との競合に直面することになる。すでに他者が目をつけている土地を奪おうとすれば戦乱が生じ、多くの場合その時点の社会を揺るがす痛手を被るのみならず、敵対社会との間に後世にわたり禍根を残すことになる。通商や安全保障の面で不利益なのである。
 そこで、無主地を一から開拓する必要が生じる。これまで人間が住んできた領域よりも条件が悪く――農作物の不作や厳しい気候条件、野獣や害虫、異民族、風土病などの脅威が想像される――、当時の文明水準からすれば格段に開発の難易度が高い土地をである。開拓に失敗した歴史は自然の支配力の証として伝承され、人々の開拓への挑戦心を失わせていったのではないか。


4.シナリオ

 そこで直感的恐怖やそれに基づく土着信仰を打ち破ることが、一部の急進的な人々によって目指された。当時の人々の間には、経験知として「自然への挑戦は無謀だ」という認識が根付いており、社会に必要なはずの開発に挑戦する者が異端視される状況が生まれていたのではないか。そのような状況に置かれたイノベーターらは、既存社会の対立軸として、人知を超えた存在を想定し、開拓は人間の天与の役割だとして思想的正統性を担保する教えを形づくった。自然の絶対性を”言い訳”にジリ貧状態を受け入れる多数派の人々を批判し、少数で結束して無謀と思われた開拓に当たったのである。
 信徒の集会は志を同じくする者の交流の機会であり、商談や融資の話もなされた。事業に成功した者は神の意思に従った者として尊重され、失敗し困窮に陥った者も栄誉ある撤退として信徒コミュニティにより救済される。

 以上ようなシナリオを想定し、初期ユダヤ・キリスト教徒は、当時の社会における政策思想集団であったとする可能性を考える。
 社会の多数派への反感を宗教的情熱に集め、それを人間の能力の鼓舞に向けた。当時は人間社会の科学力・技術力はごくわずかで自然の力に屈するしかなかったことを考えれば、人間が自然の上に立つという考え方は過激なものだったであろう。当時の人々にとりまさに無限に他ならない土地、動植物、海はとてもわたり合えるものではなく、そこから利益を得る”無謀な挑戦”を後押しする何らかの信念が求められたのではないか。そこに自生的にか人為的にか適合したのがユダヤ・キリスト教であったと考える。
 無主地の開拓への直面という要素は、アダム・エバが楽園を追放され生命の営みに苦痛を伴うようになったとする旧約聖書の文脈と符合するように思われ、神の怒りをもたらした”人間たちの堕落”は、人口過剰社会における生活水準や社会情勢の悪化に符合するように思われる。既存の宗教的・世俗的指導者は漸増主義的な方策しか打ち出せず、急進的な勢力の結集を招いたとしても不自然ではない。


5.常に求められる「偉大なメッセージ」

 例えば昨今ビジネスにおける「イノベーション」を生みだすための自己啓発書や偉人の思想を著した本に関心が集まっているが、創世記はそれに類する機能を持つ古典であった可能性が考えられる。折りしも現代、ICT時代のエポックメーカーとなったスティーヴ・ジョブズが神格化され、社会を変えるイノベーションのための天才的なメッセージが普遍的な人気を得ていることは示唆的である。
 創世記とスティーブ・ジョブズの言葉、さらには偉人の伝記や自己啓発書までに至る文書は、抽象度が甚だしく違えど、人々に何か偉大なるものによる説明や解釈を与え、単純な感覚(恐怖、短期的利害、多数派との同調欲求、安定欲求など)では忌避してしまう挑戦を行わせるという効果は共通と言えるのではないか。


6.人々を「方向づける」古典

 創世記の「自然を支配せよ」との教えは、文書成立時の社会的要請との関係において解釈されるべきと考える。古代から近年まで、人間社会は無限の力を持つ自然に、相当の犠牲を覚悟して挑戦する必要があった。その思想的正統性となったのが創世記の記述であり、創世記はその目的で成立・支持されたのかもしれない。または、ユダヤ・キリスト教の成立当初は、常識に抗う思考を持つ人々がその教えの下に集まってきたのかもしれない。
 旧来的な理解に基づく「自然を支配せよ」とのメッセージは地球環境問題が露呈するまでの長きにわたる時代の社会運営にとって合理的であり、現代に及んでキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教社会が存続している(他の無数の宗教社会が滅びてきたにもかかわらず)こと、ユダヤ人が強い社会的影響力を有するとされることとの関係も考えられる。

 近年人間は地球環境の限界を発見し、単純な「自然の征服・利用」は不合理で、「番人・管理者としての自然環境の適切な維持」が要請される社会的状況に置かれた。人類が、そのような理解に達するまでに進化した(“進化”の負の側面に言及するならば、そのような理解が強いられるほど環境を圧迫するに至った)とも言える。
 実社会での地球環境維持管理の動きと相まって、この理解は強固なものになり、地球環境の「番人」としての人間活動に思想的正統性をもたらしていくだろう。現代社会で最も広範な影響力を持つキリスト教コミュニティと言えるEUが、地球環境政策において指導的な役割を果たしていることは、その反映と読み取ることができる。

 近代以前の社会に比べ、現代は人々の思考において宗教的・歴史的メッセージが占める領域は極めて小さい。世界の人々に通じる普遍的なメッセージよりは、自らの立場に近く、具体的に想像しやすいキャラクターから発せられた教訓や思想が大きく信頼されるように思われる。しかしいつの世も人々が行動のよりどころを欲するのは共通であり、社会条件とうまく適合し成功者に支持されたメッセージが古典として後世に残るものと考える。




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【参考文献】

J. ベアード・キャリコット『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』みすず書房、2009年。

秦剛平『異教徒ローマ人に語る聖書 創世記を読む』京都大学学術出版会、2009年。

教皇ヨハネ・パウロ二世 著、山田経三 訳『真の開発とは : 人間不在の開発から人間尊重の発展へ : 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅』カトリック中央協議会、2012年。

橋爪大三郎、大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社、2011年。

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