2012年04月13日
2012-I 人間環境共生論 レポート イーハトーヴ流現実主義
2012-06-14
京都大学地球環境学大学院 人間環境共生論 レポート②
京都大学地球環境学大学院 人間環境共生論 レポート②
「グスコーブドリの伝記」が示す イーハトーヴ流現実主義
山本泰弘(地球環境政策論分野 修士2年 7330-23-1663)
〔脚注付き原稿〕
〔脚注付き原稿〕
宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」は、農林業家庭に生まれた少年ブドリが、凶作と市場動向から極貧と一家離散に陥り、「山師#」による強制労働を経て地学の才能を見出され、火山技師としてイーハトーヴ社会の防災と農業生産に功績を挙げる物語である。作品全体を通して、凶作、地震、火山噴火という災害が人間社会に当然のごとく起こるものとして描かれる。
異世界観を醸しつつも、人間社会一般に通じる自然・社会・科学への現実主義的な観念を明瞭に示す作品である。以下の要素が、この作品の体現する現実観の特徴として挙げられる。
そしてそれは「イーハトーヴ」の名前のもとに東北の社会の姿を反映しているのである。
1.本作の特徴
第一の特徴は、筆者が凶作と貧困、家族離散、労働搾取といった人間の悲劇を作品の前半にわたって淡々と述べていることである。そこには少年期のブドリに“降りかかった”境遇的艱難のみならず、ブドリの両親が町へ出て食糧を得ようとしたこと、赤ひげの主人がオリザの病気を石油で退治しようとしたこと という「無知の民による窮余の策」が含まれる(それらは結局徒労に終わる)。
「イーハトーヴ」として示される、宮沢賢治が生きた戦前の東北の地において、これらの悲劇は日常に隣り合っていたのではないか。特にブドリの両親の憔悴と蒸発、その後ブドリが連行された先での使役の表現は多分にリアルである。
第二は、科学・技術が人間社会を死と隣り合わせのリアルな苦難から救う解であると確信されていることである。赤ひげの主人の思い込みに基づいた“石油でのオリザの病気退治”が失敗したのと対照的に、学者や技師が構成する火山局による火山工作・天水肥料散布は当然のように成功する。筆者は、人の手により災害は克服できるもの、社会の悲劇は防げるものとして描く。そこに必要なのは、科学技術力と(最終局面では)人命の犠牲である。
第三に、主人公ブドリが知的能力により出世していくストーリーである。てぐす飼いの主人に使われていた頃から自学し、赤ひげの主人のもとでは死んだ息子の教材を与えられ、オリザの病気を食い止める手柄を挙げた。そして経験の長い学生を差し置いてクーボー大博士により火山局へ抜擢される。物語終盤では、火山局の責任ある業務に就いて気象操作の成果を挙げ人々に安寧をもたらす。それらの最終着点が、自らの命を犠牲にした異常気象の打開である。
以上の特徴から、本作品が現代社会にもたらす問題提起を私は次のように読み取る。
2.来るべき悲劇を克服する使命
一つめに、貧困のもたらす悲劇を率直に伝え、社会を富ませることに人の使命があるということ。作中の世界のような農業基盤社会は、高度先進国とされる日本でも広範囲を占める。依存度の差はあれ、農林水産業の好況不況によって地域経済は変動する。それを左右するものは一つに自然の働きであり、もう一つは市場動向#である。いずれも到底個々人が手出しできるものではない。イーハトーヴ、即ち東北社会では極めて直接的に、異常気象が人間へ悲劇をもたしてきたが、自然要因または市場要因によって人々が貧困に陥るというのは人間社会にとって当然の因果であり、現代の日本社会においても何ら異なることはない。
しかしそれを、異端的事象と認識するのが現代社会の傾向ではないか。災害も、大不況も、来るべくして来た現実である。それを、たまたま安定した生活をしばらく送れてきた部類の、欠乏とは縁遠い人々が中心をなす社会(世論)は、さも聖い道を歩むべきところを罠にかけられたように驚いてみせるのである。結果として感傷的議論やそれらの現実を避ける自己保身、特定の者への糾弾が幅を利かせる。
困窮は人間社会にとって身近であり、それを異常なものとして扱う――忌み嫌って無視する、あるいは慈善的精神から救済する#、の双方――のは軽薄なのである。困窮の痛手を分かち合い、叡智による発展を目指すのが人間社会である。社会が困窮に瀕する局面にあって、それでもなお成長の活路を探ること。本作はその真摯さを伝えているのではないか。
3.「犠牲」への責任
もう一つは、人間社会の生存を保つために犠牲となるものの存在を真に認めること。これは消費される自然資源や経済資源確保のしわ寄せを受ける辺境の民を”守られるべきもの”と持ち上げることを意図するのではなく、むしろ「人間社会の生存・発展には犠牲が不可欠」との事実を、現代日本の人々に当然のものとして示すと考えるのである。十分に豊かになり、かつ社会の負の面を覆い隠す情報流通体制(報道・教育・世論)が定着した日本社会は、人々がこの原則を忘れ、何らかの局面で「犠牲」の片鱗が視界に現れると白々しい反応をするのが大勢である。
辺境地に立地する原発への依存体制は、東電福島原発事故により「辺境地の犠牲」を明々白々に示した。しかしそれに対する東京の報道や世論は、「犠牲」の文脈がなく(自身への)「災厄」の文脈が大勢であったのではないか。政治決定や電力需要の形で日本社会・東京社会が原発立地の責任者となってきたにもかかわらず、民衆は無垢だとして、民衆と一体であるはずの東京電力や政府を糾弾する。電力の受益者責任を無視して世論が電気料金値上げにあくまで抵抗していることは、特筆すべき事象である。
このように、社会が「犠牲に対する責任感」からではなく「感傷」で動きがちであることが指摘できる。例えば宇宙開発をはじめとする科学技術の進展が脚光を浴びる一方で、予算使用の効率を上げるべく事業仕分けが行われる。すると”科学の進歩をとどめるな”との感傷的論調に染まる。血税からなる、国家運営の他の要素を犠牲にして配分される予算であり、その効率を改善する試みであるにもかかわらずである。
そこには「犠牲によって収穫を得ている/収穫に対する犠牲は最小限にすべき」との認識が欠落する。一般世論は政治責任や個人の人生を国家運営になげうつ政治家や行政官を酷評し、他方で大企業や高所得者に「犠牲(支配下企業や従業員への圧迫により繁栄を得ていること)への責任」を求める動きはごく小さい。犠牲の構造があっても、それが構造として理解されずに”被害者はかわいそう”、”(国は)被害者を救済しろ”、”自らが「犠牲への責任」の一端を担うのは一切許さない”との感傷の文脈が支配する。
4.世の中はこう在るものだ
「グスコーブドリの伝記」は、「銀河鉄道の夜」のように犠牲を神聖化する文脈はまったくない。物語の最終盤で、淡々と主人公が犠牲の道を選ぶ。これは人間社会にとって犠牲は当然に必要なものであり、それによって得られる利益は現実的に尊いものだと教える#。そして犠牲を払う対象は災害の打開と社会的悲劇の予防であり、その解決法にブドリを導いたのは「知」である。
本文に、ブドリの生き様を賞賛する記述はない。「人はこう生きるべきだ」との道徳的教訓を与えるものではなく、「世の中はこう在るものだ」との社会の摂理を述べる作品である。災害、困窮、経済、学問、科学技術、そして人々の幸福と「犠牲」。それぞれの要素を率直に述べた、イーハトーヴ流現実主義の物語である。
終
―――――
宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」(青空文庫Webサイトより)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html
(底本:「童話集 風の又三郎」岩波文庫、岩波書店)
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