2017年09月09日

1875 【現代語訳&講釈】竹下弥平憲法構想

竹下弥平憲法草案(1875(明治8)年、「朝野新聞」掲載)
現代語訳、解説:山本泰弘
原文(文語)参照元:「竹下弥平の憲法草案」、久米雅章 他『鹿児島近代社会運動史』、
南方新社、2005年、Pp.54-57。

現代語訳のみはこちら

(導入文)
 わが帝国において神聖な賢者である天皇からのメッセージには、「天が君主を設けるのはただただ国民のためである。君主のために人民がいるのではない」とある。
 中国の古の賢者もまた、「世界は人々みんなの世界であって、誰か一人のものではない」と言っている。欧州の古い言葉にも、「わが国は愛すべきだ。ただし、自由というものはわが国よりも愛すべきだ。わが身は滅びても、わが国が滅びることはない。わが国が滅びるとしても、自由というものは滅びることはない」とある。
 私は幼い時、これらの言葉を聞き、心のうちにこう思った。これらの教えはまさに理にかなった真理だ。しかしその真理は必ずしも実行できるわけではない。わが国は、天性の英雄が現れでもしない限り、どうして過去二千五百年のしきたりを思い切って刷新し、先の言葉が示す真理というものを実行できるというのか。
 数年前の戊辰戦争で幕府は転覆したが、時代に逆らう古い頑固なしきたりや考えは、倒幕派の錦の御旗のもとに一掃された。これにより日本国内は一変し、かつての藩は一斉に新政府の県に替わった。この明治維新に当たって天皇が自ら出した「公共のあらゆる選択や判断については、オープンな議論で決める」などとするメッセージは、先に紹介したような、いかなる時代や社会にも通じる普遍的な真理に基づくものだ。明治維新は、その真理を実行に移す契機であった。私が幼い頃に疑わしく思ったことは、みるみるうちに解決してしまった。
 ここでさらに気合を込めて、この自由民権の真理がますます発展し、欧米先進国と並ぶ水準に至ることを望む。その方向で七年経ったものの、政治改革は調子が狂ったかのようだ。私がかつて山よりも重く鉄よりも固いと常々信じていた、維新の基礎である自由民権の誓いがうやむやになってしまうとは。読者のみなさんも疑わしく思われるだろう、自由民権の真理は現実のものになるのかと。
 そんな中、人々の代表による議会を開こうという議論が起こっている。それにどんな利点や欠点があるのか、期はすでに熟したかまだ早いかなどについて賢人たちが議論している。ただ、細かいことにこだわっている場合ではない。あえて言おう、神聖な自由民権の誓いがうやむやにされようとしているときに、それを甦らせるものは議会の他に無い。自由民権の真理が封じ込められようとしているときに、それを救い出すものは議会の他に無い。
 その議会について私が切望する原則を、条文にして記す。



第一条
 明治二年の戊辰戦争終結以来七年経つが、確かに国は歩みをまた一歩進め、君子豹変すべきはまさにこの時である。故にわが帝国は、ますます朝廷の政策を広く深く行き渡らせ、わが帝国の福祉を大きく進展させられるような憲法を確固として定めるべきである。


 竹下弥平は、憲法を定める目的を第一条に持ってきている。まずこの憲法は何のためかを宣言するのだ。
 竹下の憲法でそれは、「わが帝国の福祉を大きく進展させ」ること。「福祉」とはこの時代では「幸福」のことだ。帝国も、朝廷つまり君主も、それらが行う政策も、(人々の、と言い切れないところが微妙ではあるが)幸福のためにあるのだということを確認しているように思われる。
 最近の日本でも、「幸福」とは本当は何だろうかと問われている。「幸福の国」として一時期ブータンが人気になったり、自治体で「幸福度」を数字に表そうという試みもある。「住みたい街ランキング」や「主婦が幸せに暮らせる街ランキング」というのも幸福への関心の表れと言えるだろう。
 国や社会について考える上で、「幸福」に立ち戻るというのはいつの時代も共通なのかもしれない。

 その一方で、この第一条は「裏読み」することもできる。
 「君子豹変すべきはまさにこの時」というのは、「天皇さん、憲法を定めるご決断を!(今でしょ!)」というメッセージを含んでいる。幕府から朝廷に政権交代なされたわけだが、それを押し進めた側の薩摩人の目からも期待したほどには世の中が変わっていっているように思えない。このことは二文目の「ますます朝廷の政策を広く深く」というくだりからも感じ取れる。遠回しにもっと思い切ってほしいと言っているのだ。


第二条
 第一条に言う憲法を定めるのは、五箇条のご誓文の趣旨を拡充するためであるから、立法権を議院(すでに在る左院・右院を改め、新たに設ける左院・右院)にすべて委任するものとする。


 この時代、憲法を定めようと訴える民間人(政府中枢ではない人)の多くは、朝廷が出した「五箇条のご誓文」に、「広く会議を起こし、オープンな議論で政策を決めよう」と述べられていることをその理由としていた。朝廷が自らこのように言っているんだから、それに則って議論や政策決定の大原則である憲法を決めるべきでしょというわけだ。議論する場である国会を開くべきでしょというのも同じロジックだ。
 この少し後の時代に国会や憲法を要求する運動が盛り上がってくると、「天皇さんのそばにいる政府の重役は、天皇さんの志を邪魔してるんじゃないか?」という見方が広まることになる。明治になってからも依然天皇が想像上の存在であった一般の人々からすれば、そのダイレクトメッセージである「五箇条のご誓文」はそれほど重んじられていたのだ。
 
 また、この草案が新聞に載る直後まで、政府の三大権力である立法(法律を作る)・司法(裁判をする)・行政(政策を行う)は太政官といういわば天皇側近の重役会議が全て支配することになっていた。近代的な国家ならそれらは分離するのが常識的ルールとなっているが、竹下はそれに従う形で太政官から立法権を引き離し独立させようと書いた。天皇やその側近が自分たちだけで勝手に国を操ってしまわないような仕組みを入れようとしたのだ。
 これら三つの権力の分離はすでに当時の政府が予定していて、この年のうちに形式的には実施された。しかし竹下の「立法権を議院(議会)にすべて委任する」という書き方は、本来の憲法のあり方にとても忠実で、それゆえに結局昭和戦争終結までの日本(大日本帝国)はそれができなかった。
 本来憲法は、「君主が勝手に権力を振るわないためのルール集」としての意味を持つ。だから君主が勝手に法律を作ることはできないし、「君主のご意向だ」として政府が勝手に法律を作ってもいけない。法律は国民の代表が集まる議会で決定するのが現代の憲法の基本だ。
 しかし大日本帝国の憲法では、法律を作る権限はそもそも天皇にあり、議会はそれに賛否を示す存在とされていた(法律は議会の賛同が必要、ということにはなっていた)。


第三条
 左院は定員を百人とする。
 定員の三分の一は各省の官僚(奏任官四等以下七等まで・判任官八等から十等まで)のうち、担当の仕事に熟練しかつ才能と見識を備えた者を、省ごとに若干名選び出して議員とする。
別の三分の一は、現在の社会一般において著名人として知られた功労者、旧参議・旧諸公のような在野の有識者、および博識で卓見な諸先生(例えば福澤諭吉、福地源一郎、箕作麟祥、中村正直、成島柳北、栗本鋤雲のような知識人・言論人)から選挙して議員とする。
 別の三分の一は、府県の知事・令・参事に命じて、その地域において俊秀老練で、民間社会を熟知し、地域の利害についてことごとく把握する者を選挙させる(これも最初は太政官より地方官に通達して適正に選挙するよう注意する。この小節については各地の地方官が適宜に選任することも妨げない。議院が設立された後には、別に詳細な選挙法を設ける必要がある。それについては別に述べよう)。選ばれた者は各府県の令・参事とともに代議員となって議会に出るものとする(後日、議院を選ぶ法律を整備するまでの間は、令・参事を併せて地方選出議員として取り扱わなければならない)。


 比較的庶民に近いほうから議員が選ばれるこの「左院」は、下院、今の日本で言う衆議院にあたる。
 はじめの三分の一は中級までの官僚から議員を選ぶということ。今の国会議員も官僚出身者がだいぶ多いから、似通っていると言えるだろう。

 次の三分の一はユニークだ。この時代を想像するに、「功労者」や「有識者」としては維新の志士である西郷隆盛や木戸孝允(彼らは「参議」としてすでに政治の中枢にいたが)、旧幕府側では勝海舟や徳川慶喜、そして各地の殿様が想定されたのではないだろうか。
 ここで、「旧参議・旧諸公」と書かれているのに気づく。「参議」は、右のように幕府打倒に活躍し新政府の中心となった人々が占めていた役職だ。一方「諸公」は、各地を治めてきたいわゆる殿様である。幕府を終わらせた新興勢力と、地域に根ざした在来勢力をともに議会に入れて共存を図りたいという願いが込められているように思う。
 そして「諸先生」として名前が挙げられているのは、それまで表立っては政治に関わることがあまりできなかった学者やジャーナリストらだ。

 福澤諭吉は言わずと知れた思想家かつ教育者であり、1875(明治8)年当時は驚異的ベストセラー『学問のすすめ』の著者としていわば時の人だった。
 福地源一郎はジャーナリストや作家として活躍した人であり、明治政府VIPの海外視察ツアーである岩倉使節団や西南戦争にも役人として同行した。
 箕作麟祥は、法律の元祖を築いたとも言われる法学者であり、学制、民法、商法など法典作りに大きな役割を果たした人だ。
 中村正直は、サミュエル・スマイルズの『Self Help』(邦題『西国立志篇』または『自助論』)や、ジョン・スチュワート・ミルの『On Liberty』(邦題『自由之理』または『自由論』)といった当時の西洋思想を代表する本を翻訳した学者だ。これらは福澤の『学問のすすめ』と並ぶベストセラーだったという。ちなみにお茶の水女子大学の祖(前身の女子高等師範学校初代校長)でもある。
 成島柳北は文筆家・ジャーナリストで、自由民権派を代表する新聞「朝野新聞」を創刊した人。明治政府の言論弾圧に抵抗する記事を繰り返し載せ、禁固刑、罰金刑、新聞発行停止処分を食らっている。
 栗本鋤雲は医師から江戸幕府の重役になった人で、幕府最後の局面で外交交渉を担っていた。その手腕から明治政府からもスカウトされていたが、幕府に恩を受けたからとしてそれを断ったという。その後は当時の有力紙「横浜毎日新聞」や「郵便報知新聞」のジャーナリストとして活躍した。

 このような才能を持つ人々を言い表す言葉が無かったから、竹下は「誰々のような先生」と書くしかなかったのだろう。「ジャーナリスト」や「思想家」という言葉など無かった時代であり、さらに言えば新聞というものも今のように地位が確立したメディアではなかった。(想像するに、現代におけるブログや同人誌と同じ程度の存在感ではないだろうか?)
 新しい時代には伝統的な権力者よりも、視野が広くいろいろな考え方や外国の事情を熟知する学者やジャーナリストに存在感を発揮してもらいたいとの願望が込められているのだろう。

 残る三分の一は、地域の代表者を選び出すこととなっている。「地域の利害についてことごとく把握する者」を選ぶとはっきり書いていることにも注目だ。
 現代の日本の国会は、国全体(や広域ブロック)で選ばれる(比例代表選出)議員と、各地域から選ばれる(選挙区選出)議員とがバランスよく構成するようになっている。
 各地を治めていた藩が無くなって、日本という統一国家が始まったこの時代、日本全体の利益を考える人と並んで地域の利益を考える人をしっかり議会に入れようという発想はなかなか思慮深いものと言えるだろう。今の日本の国会に規定されている国と地域のバランスを先取りしたとも言える。


第四条
 右院の議員は、現在勅任官以上の行政官の者および皇族・華族の中より選挙(第三条の記述に同じ)されるものとする。その定員は百人に限定する。ただし、司法官と武官は議員になれない。


 貴族の身分を持つ人を中心とするこちらの「右院」。皇族・華族(前に挙げた「各地の殿様」はここにも含まれる)だけでなく最上級の官僚も合わせた中から選ばれることとなっている。
 江戸時代には全くと言っていいほど政治に関わらなかった皇族や公家(くげ。朝廷に仕える各種の伝統芸能や儀礼の専門家)だけの中から選ぶのでは不安があったからか、これまでの時代の統治のプロである各地の殿様(またもや登場)と、新政府の司令塔である上級官僚を加えたのではないだろうか。
 竹下は議会の制度を詳しく書いてはいないが、右院のメンバーが政治に疎い人々ばかりであれば、竹下が工夫を凝らして構成した左院の決定を全て阻んでしまうかもしれない。近年の日本もいわゆる「ねじれ国会」となり、衆議院と参議院の議決が異なって法律が作られない時期があった。

 なお、ただし書きの「司法官と武官は議員になれない」というのは権力分立の基本だ。先ほど君主や政府が法律を決めてはいけないと書いたが、司法つまり裁判所や軍が法律を決めてもいけない。簡単に言えば裁判所は裁判で、軍は武力で人に強制力を発揮できる。そういう力を持つ人々が法律を決めるのに参加してしまうと、その力で国民を取り締まる方向の法律が作られやすくなってしまう、という懸念がこのルールの理由だ。


第五条
 太政大臣(行政の長)および左大臣・右大臣は左右両院の選挙によって定めるものとする。


 太政大臣は、今で言う総理大臣。左大臣・右大臣は副総理に当たる。
 総理大臣を国会での投票で選ぶというのは、まさに今の仕組みそのままだ。実際の明治憲法ではどうだったかというと、表向き天皇が任命することになっていたものの、実態はいわば「密室」。選ぶための決まりが無く、政界の長老である「元老」(後に「重臣会議」)のメンバーが話し合いで次の総理大臣を決めていた。
 その点、竹下の案は最も基本的でわかりやすい。天皇(というかその裏方となって物事を決めてしまう人)を介在させることなく、シンプルな仕組みで国民の代表が決まるようになっている。


第六条
 左院・右院を、開会・閉会するのは、天皇陛下の特権である。


 ここは天皇の出番だ。天皇は「広く会議を起こし、オープンな議論で政策を決めよう」としているのだから、その場である議会の開会宣言を行い、オープンな議論をしなさいと太鼓判を押すイメージだ。ここは君主としての特権の振るい所といったところだろう。
 これも現代の国会で行われていることで、毎年2,3回、天皇さんが国会の開会式で「おことば」を述べている(ただしこちらは君主としてではなく日本国民の象徴として行う儀式であり、竹下の「帝国」像とは意味合いが異なる)。
 いずれも、国の政治のおおもとの責任者(「主権者」)が、議会に意思決定を委ねることを表すものだ。


第七条
 帝国の歳入・歳出を定める特権は左右両院にある。

第八条
 帝国の憲法を定める、もしくは改訂・加筆・削除することは一切すべて左右両院の特権である。よって、たとえ行政官、司法官、武官が、どのような権威をもってしても、どのような場合であっても、議院の持つ立法の権限をわずかでも侵害することは決してできない。このことは、国を立てるにあたり最も重んじるところである。


 憲法を決めたり変えたりできるのは誰か。憲法というものが、教科書上の、ある意味雲の上の存在のように思われる私たちにとってはビシッと答えにくい問いだ。本来の正解は国民だが、行政のトップである内閣や、裁判所が、憲法に関する微妙な問題を(「憲法の解釈」という手段で)先んじて片付けてしまっている現実もある。
 そこに、やはり憲法の基本に忠実な竹下の条文は響いてくる。憲法を決めるのは国民の代表を集めた議会。行政も、裁判所も、軍も、手出しをすることは許されない。竹下はあくまで議会を中心にした国のあり方を考えた。
 (ただし現実的には、裁判所が議会の無謀な立法を止める仕組み(「違憲立法審査権」)が必要である。これが無いと議会は少数者の権利を侵害する立法ができてしまう。)
 せっかく憲法のもと国民の代表者が集まる議会で憲法や法律が決められるという仕組みが始まっても、少しするとそれが建前になって実際は官僚や軍が国を動かすようになった、という悪いシナリオを封じるための条文だ。
 明治憲法にはこの基本が甘かったために、軍が政治に強い力を持ち昭和戦争への道を突き進むことになった。そして現代も、政治における官僚の力が強すぎるんじゃないかと言われ続けている。
 竹下の書いた基本に忠実な憲法案は、いつの時代にも通用する「不朽の基本」なのだ。


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